主張・コラム 「歴史随想」

鹿児島市の多賀山公園から錦江湾を見守る東郷平八郎像

第3回なぜ太平洋戦争へ突入したのかを追及

1905年5月27日未明、ロシアのバルチック艦隊は東シナ海を北上。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』はもちろん、従来、伝説化されてきた日本海海戦の経緯とまったく異なる様相の「日本海海戦の真実」、それはそのまま講談社現代新書の書名となり、私が編集プロデュースして今から8年前の平成11(1999)年7月に刊行された。この書は、現在までに20万部近くも売れ、いまだに増刷がかかるロングセラーとなっている。

著者の野村實さんは、当時、愛知工業大学の客員教授だったが、この本を刊行した2年後、惜しくも物故された。

私は仕事の関係で、野村さんだけでなく、たとえば作家の豊田穣さん(故人)など旧海軍軍人だった方何人かと親しく交わる機会を得たが、いずれも海軍兵学校、機関学校、経理学校などを卒業された方たちで、世が世であるならば、エリートとして国防の一線に立たれていた人たちである。

では、『極秘海戦史』の場合は、どうだったのだろうか。

敗戦後の荒波がこの人たちの優れた人格をいっそう練磨したのかもしれないが、いずれも物静かでクール、しかしネービーらしくどこかにしゃれっ気を持っておられた。また記憶力抜群で、クレバーな判断力、分析力をも持ち合わせておられ、話を伺うたびに何かと驚かされたものである。野村さんももちろんそうであった。

野村さんは大正11(1922)年、滋賀県に生まれた。海軍兵学校を「恩賜の軍刀」組で卒業後、戦艦武蔵、空母瑞鶴乗り組みなどを経て、終戦時は、体調を壊したことなどもあって陸に上がり、海軍兵学校教官であった。それも最年少の。当初、校長は阿川弘之さんの小説などで知られる、海軍軍縮派三羽烏のひとり井上成美中将であったと聞く。

野村さんに井上中将のことを何度か尋ねたことがあったが、何があったのか、これといって具体的な話は伺えなかった。人物像は見る側の立ち位置によって相当違うわけで、井上成美礼賛論が強まっていた時代にあって、あえて自分の見た井上論を話す必要はないだろうというのが野村さんの判断だったに違いない。

戦後、復員事務などに携わったのち、防衛庁に入り、戦史研究室長、防衛大学教授などを歴任、その後、愛知工業大学に転じられている。

野村さんは軍事史学会の会長をつとめるなど、その世界の権威だったが、一貫して追及されてきたのは、「なぜ日本が愚かな太平洋戦争へと突入していったのか」ということだった。その端緒となったのが、日露戦争の奇跡的勝利であり、そこから日本が奇妙な方向へ動き出したというのが、司馬さんもそうだが、野村さんの認識だったように思われる。

では、日本に奇跡の勝利をもたらす契機となった日本海海戦の実相はどういうものだったのか、巷間、言われているようなことで間違いないのだろうか。野村さんの怜悧な目は、そこへ鋭く向けられていったのである。(続く)



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