主張・コラム 「歴史随想」

鹿児島市の多賀山公園から錦江湾を見守る東郷平八郎像

第8回ロシア的専制の弊害と戦略思想の古さ

秋山兄弟生誕地明治37(1904)年10月10日、ロシア・リバウ軍港を抜錨したバルチック艦隊は、西進してスペイン・ヴィーゴ港に寄港、その後、友好国フランス領タンジールを経て、マダガスカル島ノシべ泊地に錨をおろした。

この泊地は暑熱地獄とでもいうべきところであったが、艦隊はここで、スエズ運河経由の分遣隊と合流する。だが、石炭供給契約のもめごとから、2ヶ月間という長時日を空費してしまう。しかもこの間に旅順陥落と旅順艦隊全滅の報が入り、艦隊の士気は上がりようもなかった。

艦隊がノシべ泊地を抜錨(ばつびょう)し、東に向かい動き始めたのは3月16日のことであった。20日間余をかけてインド洋を横断、艦隊が入ったのはベトナム・カムラン湾であった。艦隊指揮官ロジェストウェンスキー長官は、この波穏やかなフランス領の泊地で停泊し、兵士に休養を与えるとともに石炭補給を行なう予定であった。その間に、ネボガトフ少将指揮の第三東洋艦隊が合流することになっていた。

ところが第三艦隊が到着する前に、フランスの軍艦がやってきて、乗船していた提督が24時間以内に湾内から退去するようにと命じた。イギリスがそのことを理由に、「フランスは中立義務に違反している」と厳重抗議をしてきたために、友好国とはいえフランスとしてはそう命じる以外になかったのである。

ロジェストウェンスキー長官は、遅速の旧式戦艦からなるネボガトフ艦隊をできることなら、きたるべき戦場に伴いたくなかった。足手まといになるばかりだからである。だが、ロシア本国の訓令、というかニコライ皇帝が頑なだった。

ロシア人の機能よりも大きさ、あるいは量を重視する思考がそこには強く出ていた。司馬遼太郎さんは「ロシア的専制の弊害」と、「海戦とは単艦同士の叩きあいの足し算的総計で勝敗が決まる」という戦略思想の古さを、『坂の上の雲』で指摘している。

バルチック艦隊は、やむなくカムラン湾を出、ヴァン・フォン湾にもぐりこんだが、ここも追い出され、やむなく同湾沖を遊弋(ゆうよく)しつつ、ネボガトフ艦隊を待つことになった。

シンガポールを5月4日早暁に通過したネボガトフ艦隊は、同9日にバルチック艦隊旗艦スワロフと無線交信することに成功、同日午後2時過ぎ両艦隊は、将兵の大歓声のなかを合流した。ロジェストウェンスキー率いる艦隊は、総数50隻、総排水量は16万200余トンという未曾有の巨大な数字に達していた。

日本という東洋の小生意気な小国に鉄槌を振り下ろすべく、この巨大艦隊がヴァン・フォン湾沖を抜錨したのは5月14日のこと。この日から、日本側はその行方を血まなこになって捜し求めることになる。(続く)





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