主張・コラム 「歴史随想」

鹿児島市の多賀山公園から錦江湾を見守る東郷平八郎像

第9回異様なたたずまいをしたバルチック艦隊

秋山兄弟生誕地正式にはロシア太平洋第二艦隊と呼ぶが、バルチック艦隊について余談のようではあるが、実は将兵の戦意に関わる重要かつ面白い話が、児島襄さんの『日露戦争 第四巻』「カムラン湾」の項に記されている。

この児島さんの『日露戦争』は、私が編集長をしていた雑誌に長期連載されていたもので、当時、読者調査をしてみると一部歴史マニアには強い支持があったものの、多くの読者からは飛ばし読みの対象とされていた。

編集部内はもちろん社内でも「早期打ち切り」の声が強く、扱いにひどく困ったことが今でも記憶にある。そのまえに連載していた雑誌でも同様な事態が起きており、経営トップが頼み込まれて連載を引き受けた経緯があった。私も、当時は強硬な打ち切り論者であった。

児島さんは元来、共同通信の記者出身で、『天皇』『日中戦争』など近代日本を題材にした記録文学の代表的作家として知られていた。相撲好きで、自らも体躯隆々音吐朗々、なまじの編集者が出かけていっても怒鳴り散らされるばかり、とても猫に鈴などというわけにはいかない。

最終的にどのようにしたかは忘れたが、長年の友人である経営トップが改めて会談を持ち、区切りのいいところでお止めいただくことになったように記憶している。それでも毎号相当のページ数をとり、5年余りも連載されていただろう。原稿料も破格だった。

そんな思い出のある児島さんの『日露戦争』だが、いま読み返してみると、処々に興味深い話が出てくる。これから書こうとするエピソードもその一つである。

児島さんは旗艦「スワロフ(スフォーロフ)」乗組の機関中尉ポリトウスキーの手紙にある「わがバルチック艦隊の航海は、まことに異常なものとして記録されるであろう」という一節以下を引用、概略、こう記している。

「中尉が『異常』と指摘したのは、その航行距離だけではない。マダガスカル島を出撃するさいの艦隊のたたずまいに衝撃をうけたからであり、それは『異常』というよりは、『異様』な印象さえあたえた、と、中尉はいう」

何が異様だったかというと、艦隊を構成する各艦船の積荷の様が、であった。マダガスカルを離れると7060海里さきのウラジオストックまでロシア領はなく、途中、補給できるのはフランス領インドシナだけである。そこでインド洋を渡りきるに十分な燃料、食料を積み込まなければならなかった。

「各艦ともに燃料の石炭袋を満載し、すべての防水区画すなわち砲塔、船室、通路など、どこもかしこも石炭だらけになり、戦艦『アリョール』では艦長室の一隅にも積みあげられた」

しかし、そこまではまだ理解できる範囲の光景であった。(続く)





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